共通教育科目「基礎教養1」の「世界の思想」2007年度1学期水曜4時限

「認識するとはどういうことか?」

                                 

   §1 導入:知にはどんなものがあるのか?

1、講義計画

 

§1知にはどんなものがあるのか?

§2究極的に根拠付けられた知は存在するのか?

§3規約主義の問題

§4知の定義

§5全ての知識は経験に基づくのか?

  イギリス経験論

§6アプリオリな知識(獲得するのに経験を必要としない知識)はあるのか?

  カントの認識論

§7心身問題

§8心身問題2

§9感覚所与論

§10知覚の因果説

§11志向性

§12科学哲学 論理実証主義

§13科学哲学 クーン

§14 テスト

§15 予備日 

 

2、講義の趣旨説明

・認識論は、epistemologyないしtheory of knowledge の訳です。

 

    古代中世の哲学では、存在論が中心でしたが、近代になって認識論の重要性が指摘され、認識論が言わば第一哲学と見なされるようになりました。

 

    そして、認識について意識の反省ないし内省による方法による限界から、言語分析による方法が登場しました。現代哲学は、20世紀初頭の言語論的転回によって始まると考えられており、その後は言語哲学が第一哲学とみなされるようになりました。

 

 これは私見ですが、哲学の最も基本的な問題は、おそらく

「世界がどのようになっているのか(How does the world exist?)」

  「我々が生きることには、どのような意味があるのか(What is the meaning in which we live?)」

という2つの問いに答えることだろうと思います。

しかし、これらの問いに答えるためには、

「我々はどのようにして認識するのか」

という問に答えることが不可欠です。この問いに取り組むのが、認識論です。

 

この講義のねらいは、

 

・認識論における最も重要な現代的問題と議論、そしてその歴史的背景についての理解を学生が得ること、

 

・講義を終わった後に学生がこの問題を自分で考えるようになって欲しいということ、

 

です。(ちなみに、これサールがある入門書で、冒頭に述べているその書物の3つの目標の内の1つです。第三の目標は、サールが正しいアプローチと考えるものをあきらかにすること、でした。この講義で、私の立場を述べようとすると、時間的に無理なので、断片的にのみ伝えたいと思います。)

 

 

3、知には、どのようなものがあるか。

 

 認識(cognitionErkenntnis)は、知識(knowledgeWissen)と異なる。ある文脈では、区別の必要が無いが、ある文脈では区別すべきである。「認識」は、「獲得された知識」という意味で使用されることがあるが、「知識を獲得すること」という意味で使用されることもある。また、「彼は、映画マニアで、映画について非常に詳しい知識を持っている」ということはいえても、「彼は映画について非常に詳しい認識をもっている」とは言わない。何か失敗したときに、「私の判断が甘かった」とか「私の認識が甘かった」ということはあっても、「私の知識が甘かった」ということはない。

 「認識」も「知」も多様は意味を持っているが、認識論で伝統的に扱われてきた「認識」ないし「知」は、以下に説明する「命題知」に当たるものである。しかし、知には、それ以外の種類のものもある。

 

戸田山和久『知識の哲学』(産業図書)によれば、知を次の3種に分類できる。

 

 (1)命題知(propositional knowledge)  know-that

         彼女は「「プラクティス」は放送中止になった」と知っている。

 

 (2)know-how

     彼女はピアノの弾き方を知っている。

彼女は自転車の乗り方を知っている。

 

  (3)know-what(何であるかの知)

     彼女はゴーヤとは何かを知っている。

彼女はオレンジエックスとは何かを知っている。

 

 (4) know-what-it-is-like(それがどのようであるかの知)

     彼女はオレンジエックスの使い心地を知っている。

     彼女は波乗りの恐怖と楽しさを知っている。

          

 

戸田山氏は、「(4)は(2)の一種、(3)(4)(1)の混ざったもので、(1)(2)は、まるで異なる」(前掲書、p.7)

 

 

(1)は、命題知である。

 

(2)は、技能知である。

 

彼女は、本の借り方をしっている。

  彼女は、本の借り方を、人に説明することが出来る。

  彼女は、本を借りることが出来る。

 

(3)は、感覚の再認、知覚による対象の再認

  彼女は、ベジマイトの味を知っている。

  彼女は、ナナカマドを知っている。

  彼女は、彼の友達を知っている。

 もし、彼女が、ベジマイトの味を味わったならば、それがベジマイトの味だと再認できる。もし、彼女がナナカマドを見れば、それがナナカマドだと分かる。もし、彼女が、彼の友達を見れば、それが彼の友達だとわかる。

 

(4)技能と知覚が混合している?

 

 

注:know-howと暗黙知

ポランニー『暗黙知の次元』(佐藤敬三訳、紀伊国屋書店、1980年)

Michael Polanyi “The Tacit Demension” Routlede & Kegan Paul, London, 1966.

 

「潜在知覚」(subception)p.20

「暗黙知という行為においては、あるものへと注目する(attend to)ため、ほかのあるものから注目する(attend from)と表現することにしよう。つまり、暗黙的関係の第一項から第二項へと注目するのである。この関係の第一項が我々に対してより近くにあり、第二項が遠くにあることは、さまざまなかたちで明らかにされるであろう。解剖学の言葉をもちいて、我々は第一項を近接的、第二項を遠隔的と呼ぶことが出来るだろう。そこで、我々が語ることができない知識を持つということきには、それは近接的項目についての知識を意味している。」(p.24)

 

<授業の後で>

授業の中で学生から次のような曖昧な事例が挙げられました。

・絶対音感

・ひよこのオスとメスを見分けることが出来る

これを技能知とするか、再認知とするか、(know-how を技能知、 know-whatを再認知と理解するときに、すでに戸田山さんが考えていた内容とずれているかもしれないのですが、・・・)が曖昧な点です。

 

これを考えるために、まず、次の点を指摘してきましょう。

・技能知は、身体運動の技能に限らない。たとえば、暗算をすることは、技能知である。さらにいえば、筆算をすることも技能知であり、数を数えることも技能知である。そして、このように拡張するならば、文法に適った日本語を話したり、書いたり、読んだり、聞き取ったりすることもまた技能知である。

そうすると、命題知との区別が曖昧になる。

 

・再認知と命題知の区別

「ブータンの首都は、ティンプーである」を知っているのは、命題知である。

しかし、「これは、私の傘だ」とわかるのは、再認知である。

「これは、ラの音だ」「この音は、あの鳥の鳴き声と同じ音程だ」これらは、再認知であろう。

 聞き取った音を、楽譜に書き込むことは技能知だろう。

 

・タイプの再認と個体の再認を区別する必要がある。